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柳澤木工所と民芸の関わりはじめ

大工だった柳澤次男が戦争中、飛行機の翼の部品である隔壁を作る工場に勤める様になって、毎日道具箱を担いで出かける大工が嫌になったらしい。次男の父も大工で兄弟の半分は大工だった。戦後この兄弟を含め木工所を始めた。電気蓄音機や映画館やNHKのスピーカーボックスを作っていた。当時始まった学校放送のコンソールデスク 教室のスピーカーボックス、等もやっていた。この頃松本市は市として家具木工業界の将来を考え民芸の指導者柳宗悦先生に指導を仰いだ。当時5,6人が関心を持った様であるが、後まで続いたのは松本民芸家具の池田四郎氏と柳澤次男だけだった。(民芸の手機による織り物はかなり盛んだった。) しかしながら民芸の道も厳しく柳澤次男も挫折し一旦は民芸を離れたが再び柳宗悦先生に教えを請う様になった。この時「逃ルヽ者ヲ迎フトハ」と書いて下さった。河井寛次郎、黒田辰秋、バーナード・リーチ氏らと共に柳先生が度々指導に来られていた。椅子とテーブルが色々考えらた。、椅子では背や座に張るものつとして 籐 、蒲ござを解した蒲、真綿を使った代用皮革、根曲がり竹等は今でもあちこちに残っている。この年根曲がり竹を張ったアームチェアーは日本民芸館で民芸賞をいただいた。木部は欅でクリアー仕上げであった。

下記論文からこの頃の事を詳しく知ることができます。


『比較社会文化』第11巻(2005)25~50頁
Beelletin of the Graduate School of Soclal and Cztltzaral Stzadies,Kyblshzt Universily vol.ll(2005),pp.25-v50
農美運動と民芸運動 一風土文化の深化と産業地域の革新 一一 宮 川 泰 夫